2013年10月29日火曜日

「貴婦人と一角獣」とジョルジュ・サンド


前に、「貴婦人と一角獣」はジョルジュ・サンドとプロスペール・メリメのおかげで文化遺産として保護されることになったと書きました。

サンドは、このタペストリーについて色々な文章を書き、その芸術的、技術的クォリティーを讃えています。それによると、彼女が見たとき、タペストリーは8点あったということです。いつの間にかそのうちの2点は失われ、今日私たちが目にすることができるのは、6点のみになったのでしょうか。

男装で知られた彼女は、貴婦人の衣装についても触れています。それぞれのタペストリーの中で、貴婦人はその都度異なる衣装を身に着けています。中世の貴婦人は、朝の衣装、狩りをする時の衣装、舞踏会に出かける時の衣装、宮廷で着る衣装、といった具合に、しょっちゅう着替えをしていたからだと彼女は考えました。そして、衣装が細部にわたって忠実に再現されていることに感嘆します。

「貴婦人と一角獣」に作家としての想像力を大いに刺激されたジョルジュ・サンドは、タペストリーの由来について色々と思いを巡らせました。

例えば、15世紀末のスルタン、バヤジット2世との権力抗争に破れ、ヨーロッパに幽閉されていたスルタンの弟、ジェムの館を飾っていたのだろう、タペストリーの中の女性は彼が愛した女性だったのだろうと書いています。(1847年Illustration誌掲載の記事より)

エキゾチックなトルコの王子の運命が、ロマン派の作家サンドの気に入ったことは、想像に難くありません。

サンドの推理は当たっていなかったわけですが、彼女が何度も「貴婦人と一角獣」について書いたことで、このタペストリーは有名になりました。

1876年にサンドが亡くなったとき、作家のエルネスト・ルナンは彼女を惜しんで書きました。「彼女は実際的なことで間違った判断をすることがあったとしても、芸術家としては、決して間違えることはなかった。」

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ヨーロッパの職人が作ったゴブラン織りのタペストリー

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