2017年12月29日金曜日

断捨離がリバウンドしないために適度な無駄を

犬と猫をモチーフとしたクッションカバー

前回の記事で、断捨離がリバウンドしてしまう理由について書きました。

ここではもう一つ進んで、リバウンドしないためにどうしたらいいかを考えます。

リバウンドしないためには、気持ちのいいごちゃごちゃ感が必要です。


それも、他の誰とも違う自分らしいごちゃごちゃ感を作れたら最高ですね。

その部屋が本当に自分の場所となり、くつろぐことができます。

ごちゃごちゃ過ぎたらただの汚い部屋。

片付きすぎたら病室みたい。

このバランスが、難しい。

一つの方法は、宝物を置くコーナーを決めることです。

宝物って、役に立たないモノも多いですね。

でも、役に立つモノばかりでは、人生も空間も殺風景になってしまうのでは。

だからといって、そこら中無駄なモノがあふれているのも美しくありません。

だから、ここにはちょっと無駄なモノを置いてもいい、という場所を決めればやりやすいのではないでしょうか。

一度に置くモノの数を決めておいて、それ以上にならないように気を付けるのもいいでしょう。

空間にメリハリを持たせるということです。

<広告>
輸入インテリア雑貨


にほんブログ村 雑貨ブログへ
にほんブログ村

2017年12月28日木曜日

断捨離がリバウンドする2つの理由

女性、カーテン、日当たりの良い片付いた部屋

ダイエットと同じで、断捨離もリバウンドしてしまう場合があります。 

リバウンドしてしまう原因は色々でしょうが、大きく二つに分けられるのでは。

一つは、衝動買いなど、考えないでモノを貯めこんでしまう習慣が再発してしまうこと。

一つ目はわかりやすいですね。

もう一つは、ムリな断捨離をしてしまった場合です。

ムリなダイエットが体に悪いことはよく知られています。

ムリな断捨離はどうでしょうか。

何を棄て、何を取っておくかという判断は、けっこう難しいですね。


余計なモノであふれた部屋ではくつろげませんが、病院のような部屋、ショールームのような部屋ではどうでしょうか。

動物は、自分の縄張りを保つために臭いを付けます。

人間は、何か自分らしいものを置くことによって、空間を自分の場所にするのかもしれません。

初めて一人暮らしをした時のことを考えてみると、ピンとくると思います。

自分らしいものとは、家族の写真かもしれないし、観葉植物かもしれないし、実家で使っていたお茶碗かもしれません。

好きで集めているモノかもしれません。

無駄なものは持たない、それはきれいな部屋を作るための大切なルールです。

でも、無駄なものは何一つ持たない、とあまり厳しいルールを定めてしまうと、息苦しくなることがあるのでは。

その結果、断捨離がリバウンドしてしまうのかもしれません。

<広告>
ホッとする雑貨たち


にほんブログ村 雑貨ブログへ
にほんブログ村

2017年12月26日火曜日

戌年も、さりげないのがかっこいい

ヒスイ(翡翠、ジェード、ジェイド)の犬の置物

来年の干支は戌。


さりげなく犬をインテリアに取り入れるというのはどうでしょう。
いかにも、っていう感じの置物等よりセンスが感じられるかもしれませんね。

ダルマシアンという犬の顔を織り込んだゴブラン織りのクッション


<広告>




にほんブログ村 雑貨ブログへ
にほんブログ村

2017年12月24日日曜日

夏目漱石とペット

ハンドメイドで丁寧に作られたリネンの小鳥のオーナメント

夏目漱石と言うと、猫ですね。

でも、夏目漱石には『文鳥』と言う短編小説もあります。

ただこの小説、文鳥が好きな方には絶対にお勧めできません。
夏目漱石が嫌いになってしまうと思います。
ここには大変身勝手で、ひねくれた小説家の姿が描かれています。

しかし、この小説の中の「私」とは、本当に漱石自身のことなのでしょうか。
小説家と言うものは書き始めたらフィクションの世界に入ってしまうものです。
小説の中の「私」がそのまま作家自身だと思うのは単純すぎるでしょう。
漱石の娘さんの思い出を読んだことがあります。
今手元にないのですが、文豪の普段の姿が描かれていました。
娘さんの思い出の中では、漱石は動物に対しても温かい心を持っていました。
文鳥が死んだ原因も、この思い出話と小説『文鳥』の中では異なっています。
娘さんの話では、漱石は文鳥の死を素直に悲しみ、子供たちにお墓を作ってあげるように言ったとあります。

漱石の家の跡には猫塚と呼ばれるものがあります。
吾輩は猫である」の猫の墓だという俗説もありますが、実は漱石の家で飼われていた様々な動物のために作られたといいます。
小説の中に出てくる「私」が漱石の実像に近いのか。
それとも娘さんの思い出の中の父が本当の漱石なのか。
または小説の中の文鳥と娘さんの話の中の文鳥は、別の文鳥なのか。

いずれにしても、小説は小説として純粋に味わい、文鳥は文鳥として純粋に愛したいものです。



にほんブログ村 雑貨ブログへ
にほんブログ村

2017年12月17日日曜日

ペットロスから癒されるために


フランスに住んでいた時、近所に猫を飼っている人がいました。

放し飼いにしていて、ある日交通事故に。

フランスでも、事故に遭ったり姿を消す放し飼いの猫は多いようです。
その一部は毛皮になっているという恐ろしい記事を読んだこともあります。
犬も、同じ目的のために盗まれることがあるといいます。

猫がいなくなってから一週間ほど経った頃でしょうか。
隣人のアパルトマンに行くと、見知らぬ猫がいます。

「弟がくれたんだ。」
そう言う彼の顔は明るくはありませんでした。
「子どもたちは大喜びさ。
でも僕は…」
「まだ新しい猫なんて欲しくなかった?」
彼は黙ってうなづきました。
辛そうでした。

人間の家族を失くした時、誰が新しい子どもやお母さんを上げるでしょう。
ところがそれが動物の時、人は時として、良かれと思って間違いを犯してしまいます。


時間が経てば、よその子を見て目を細めるようにもなるでしょう。
お母さんのような人に甘えることもあるでしょう。
そうなるまでには、どうしても時間が必要です。

ペットを失った人にも、喪の時間は必要だそうです。

周りの人にできるのは、その人が十分に喪の時を生きる手助けをすることかもしれません。
それは、さりげなく「理解してるよ」というサインを送ることだったり、そっとしておいてあげることだったり、場合によって違うので難しいですね。

でもとにかく、他のあらゆるコミュニケーションと同じように、相手の気持ちになってみることから始まるのでしょう。



<広告>